トップページへ 各国王名一覧 | ||||||
代 | 君主名 | 在位 | 王朝名 |
関 係 |
備考 | |
他の王位、称号 | ||||||
ー |
レオポルト1世 Leopold I |
オーストリア 辺境伯 976~994 |
バーベンベルク家 Babenberg |
ー | 神聖ローマ皇帝オットー2世によってオーストリアに封ぜられた。 生年不詳~994年没。 | |
ー |
ハインリヒ1世 Heinrich Ⅰ |
オーストリア 辺境伯 994~1018 |
息子 | レオポルト1世の息子。 生年不詳~1018年没。 | ||
ー |
アーダルベルト Adalbert |
オーストリア 辺境伯 1018~1055 |
弟 | レオポルト1世の息子。 生年985~1055年没。 | ||
ー |
エルンスト Ernst |
オーストリア 辺境伯 1055~1075 |
息子 | アーダルベルトの息子。 生年1055~1095年没。 | ||
ー |
レオポルト2世 Leopold Ⅱ |
オーストリア 辺境伯 1075~1095 |
息子 | エルンストの息子。 生年1055~1095年没。 | ||
ー |
レオポルト3世 Leopold Ⅲ |
オーストリア 辺境伯 1095~1136 |
息子 | レオポルト2世の息子。 生年1073~1136年没。 | ||
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レオポルト4世 Leopold Ⅳ |
オーストリア 辺境伯 1136~1141 |
息子 | レオポルト3世の息子。 生年1108~1141年没。 | ||
ー |
ハインリヒ2世 Heinrich Ⅱ |
オーストリア 辺境伯 1141~1156 オーストリア公 1156~1177 |
兄 | レオポルト3世の息子。 生年1107~1177年没。 | ||
ー |
レオポルト5世 Leopold Ⅴ |
オーストリア公 1177~1194 |
息子 | ハインリヒ2世の息子。 生年1157~1194年没。 | ||
ー |
フリードリヒ1世 Friedrich Ⅰ |
オーストリア公 1194~1198 |
息子 | レオポルト5世の息子 生年1175~1198年没。 | ||
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レオポルト6世 Leopold Ⅵ |
オーストリア公 1198~1230 |
弟 | レオポルト5世の息子。 生年1176~1230年没。 | ||
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フリードリヒ2世 Friedrich Ⅱ |
オーストリア公 1230~1246 |
息子 | レオポルト6世の息子。 嫡子のないまま死亡したため、バーベンベルク家は断絶した。 生年1211~1246年没。 | ||
1 |
ルドルフ1世 Rudolf Ⅰ |
オーストリア公 1276~1291 神聖ローマ皇帝 1273~1291 |
ハプスブルグ家 Habsburg |
ー | ハプスブルグ伯アルブレヒト4世 Albrecht Ⅳの息子。 前オーストリア公バーベンベルク家の断絶により、その領地を引き継いだ。 ドイツ王(神聖ローマ皇帝)の大空位時代であっため、ドイツ諸侯は選帝侯会議を開き、弱小の一貴族に過ぎないハプスブルグ家のルドルフ1世を新制ローマ皇帝に選んだ。 これに納得しないボヘミアのオタカル2世 Otakar Ⅱと戦争になり、これに勝利した。 ローマ教皇から神聖ローマ皇帝位を戴冠していない。 しかし、ローマ教会の権利を守り、十字軍への支援と引き換えにローマ皇帝位の世襲を認めさせた。 生年1218~1291年没。 | |
ハプスブルグ伯(1240~1291)、シュタイヤーマルク公 Steiermark(1276~1291)、ドイツ王(1273~1291) | ||||||
2 |
アルブレヒト1世 Albrecht Ⅰ |
オーストリア公 1282~1308 神聖ローマ皇帝 1298~1308 |
息子 | オーストリア公ルドルフ1世の息子。 ドイツ諸侯は彼の実力を脅威とし、ローマ教皇の同意なしに息子たちへのローマ王位の継承させないことを決めた。 自身の甥ヨハンによって暗殺された。 生年1255~1308年没。 | ||
シュタイヤーマルク公(1282~1308)、ドイツ王(ローマ王)(1298~1308) | ||||||
3 |
ルドルフ2世 Rudolf Ⅱ |
オーストリア公 1282~1283 |
弟 | オーストリア公ルドルフ1世の息子。 一時的に、オーストリア、シュタイヤーマルク公領を、兄アルブレヒト1世と共同統治者。 生年1270~1290年没。 | ||
シュタイヤーマルク公(1282~1283) | ||||||
4 |
ルドルフ3世 Rudolf Ⅲ |
オーストリア公 1298~1307 |
叔父 | オーストリア公アルブレヒト1世の息子。 ボヘミア王としてはルドルフ1世。 一時的にオーストリア公領を、兄アルブレヒト1世と共同統治。 生年1281~1307年没。 | ||
ボヘミア王(1306~1307) | ||||||
5 |
フリードリヒ1世 Friedrich Ⅰ フリードリヒ3世 Friedrich Ⅲ |
オーストリア公 1308~1330 |
弟 | オーストリア公アルブレヒト1世の息子。 ドイツ王(ローマ王)としてはフリードリヒ3世。 生年1289~1330年没。 | ||
シュタイヤーマルク公(1308~1330)、ドイツ王(ローマ王)(1314~1330) | ||||||
6 |
レオポルト1世 Leopold Ⅰ |
オーストリア公 1308~1326 |
弟 | オーストリア公アルブレヒト1世の息子。 一時的にオーストリア公領をフリードリヒ1世と共同統治した。 生年1290~1326年没。 | ||
ケルンテン公 Kärnten(1308~1326) | ||||||
7 |
アルブレヒト2世 Albrecht Ⅱ |
オーストリア公 1326~1358 |
弟 | オーストリア公アルブレヒト1世の息子。 一時期、オーストリア公、ケルンテン公領をオットーと共同統治した。 生年1298~1358年没 | ||
ケルンテン公(1335~1358) | ||||||
8 |
オットー Otto |
オーストリア公 1330~1339 |
弟 | オーストリア公アルブレヒト1世の息子。 一時期、オーストリア公、ケルンテン公領をアルブレヒト2世と共同統治。 生年1301~1339年没。 | ||
ケルンテン公(1335~1339) | ||||||
9 |
ルドルフ4世 Rudolf Ⅳ |
オーストリア公 1358~1365 |
甥 | オーストリア公アルブレヒト2世の息子。 「選帝侯の上を行くオーストリア大公である」との偽造された大特許状を提出した。 シュテファン大寺院、ウィーン大学創設などで「建設公」と呼ばれた。 生年1339~1365年没。 | ||
チロル伯(1363~1365)、シュタイヤーマルク公(1358~1365)、ケルンテン公 (1358~1365) | ||||||
10 |
アルブレヒト3世 Albrecht Ⅲ |
オーストリア公 1365~1395 |
弟 | オーストリア公アルブレヒト2世の息子。 一時期、オーストリア公、シュタイヤーマルク公領をレオポルト3世と共同統治。 生年1349~1395年没。 | ||
チロル伯(1365~1395)、シュタイヤーマルク公(1365~1379) | ||||||
11 |
レオポルト3世 Leopold Ⅲ |
オーストリア公 1365~1379 |
弟 | オーストリア公アルブレヒト2世の息子。 一時期、オーストリア公、シュタイヤーマルク公領をアルブレヒト3世と共同統治。 生年1351~1386年没。 | ||
シュタイヤーマルク公(1365~1386)、ケルンテン公(1365~1386) | ||||||
12 |
アルブレヒト4世 Albrecht Ⅳ |
オーストリア公 1395~1404 |
甥 | オーストリア公アルブレヒト3世の息子。 生年1377~1404年没。 | ||
13 |
アルブレヒト5世 Albrecht Ⅴ アルブレヒト2世 |
オーストリア公 1404~1439 |
息子 | オーストリア公アルブレヒト4世の息子。 ローマ王としてはアルブレヒト2世。 生年1397~1439年没。 | ||
ドイツ王(ローマ王)(1438~1439)、ハンガリー王(1437~1439)、ボヘミア王(1438~1439) | ||||||
14 |
ラディスラウス Ladislaus ラースロー5世 |
オーストリア公 1440~1457 |
息子 | オーストリア公アルブレヒト5世の息子。 ハンガリー王としてはラースロー5世。 生年1440~1457年没。 | ||
ハンガリー王(1444~1457)、ボヘミア王(1453~1457) | ||||||
15 |
フリードリヒ5世 Friedrich Ⅴ フリードリヒ4世 フリードリヒ3世 |
オーストリア公 1439~1493 神聖ローマ皇帝 1452~1493 |
親戚 | シュタイヤーマルク公、及びケルンテン公エルンストの息子。 ドイツ王(ローマ王)としてはフリードリヒ4世、神聖ローマ皇帝としてはフリードリヒ3世。 一時期、オーストリア公、シュタイヤーマルク公、ケルンテン公領をアルブレヒト6世と共同統治。 慣習に伴い、ローマ教皇から神聖ローマ皇帝位を戴冠した。 その墓碑には「AEIOU」と刻まれてるのは「世界に冠するオーストリア」の意味。 ポルトガル王女エレオノーレ Eleonoreを妃にした。 自身の息子や娘をあちこちの王族と結婚させた。 生年1415~1493年没。 | ||
シュタイヤーマルク公(1424~1493)、ケルンテン公(1424~1493)、ドイツ王(ローマ王)(1440~1486) | ||||||
16 |
アルブレヒト6世 Albrecht Ⅵ |
オーストリア公 1439~1463 |
弟 | シュタイヤーマルク公、及びケルンテン公エルンストの息子。 一時期、オーストリア公領をフリードリヒ5世と共同統治。 生年1418~1463年没。 | ||
17 |
マクシミリアン 1世 Maximilian I |
オーストリア公 1493~1519 神聖ローマ皇帝 1508~1519 |
甥 | オーストリア公フリードリヒ5世の息子。 「中世最後の騎士」と呼ばれた。 傭兵による歩兵部隊を重用した。 近代郵便制度を確立させた。 自身の娘、息子をスペインの王太子、王女と結婚させた。 更に2人の孫をポーランド王(兼ボヘミア王、ハンガリー王)家と結婚させた。 ウィーン少年合唱団の元を創設した。 生年1459~1519年没。 | ||
チロル伯(1490~1519)、シュタイヤーマルク公(1493~1519)、ケルンテン公(1493~1519)、ドイツ王(ローマ王)(1493~1519) | ||||||
18 |
カール5世 Karl Ⅴ カルロス1世 Carlos Ⅰ |
オーストリア公 1519~1521 神聖ローマ皇帝 1530~1556 |
孫 | ブルゴーニュ公フェリペ1世とカスティーリャ女王フアナの息子。 マクシミリアン1世の孫。 スペイン王としてはカルロス1世。 カトリック信者として同盟を組み、シュマルカルデン戦争(1546~1547年)でプロテスタント諸侯を打倒した。 しかし、ペスト対策に疲れ、1556年、神聖ローマ皇帝位を弟のフェルディナント1世に継がせ、修道院で余生を過ごした。 生年1500~1558年没 | ||
チロル伯(1519~1521)、シュタイヤーマルク公(1519~1521)、ケルンテン公(1519~1521)、ブルゴーニュ公(1506~1556)、ドイツ王(ローマ王)(1519~1530)、スペイン王(1516~1556)、イタリア王(1530~1556) | ||||||
19 |
フェルディナント 1世 Ferdinand Ⅰ |
オーストリア公 1521~1564 神聖ローマ皇帝 1556~1564 |
弟 | 生年1503~1564年没。 | ||
ボヘミア王(1526~1564)、ハンガリー王(1526~1564)、ドイツ王(ローマ王)(1531~1564) | ||||||
20 |
マクシミリアン 2世 Maximilian Ⅱ |
オーストリア公 1564~1576 神聖ローマ皇帝 1564~1576 |
息子 | フェルディナント1世の息子。 カトリックでありながら、プロテスタントに傾倒した。 生年1527~1576年没。 | ||
ローマ王(1562~1575)、ハンガリー王(1562~1575)、ボヘミア王(1563~1572) | ||||||
21 |
ルドルフ2世 Rudolf Ⅱ |
オーストリア公 1572~1608 神聖ローマ皇帝 1576~1612 711~715 |
息子 | マクシミリアン2世の息子。 スペイン王フェリペ2世の元で育った。 政治に興味を示さず、プラハ城で錬金術、占星術の研究に時間を費やした。 学芸に秀でていて、ケプラーなどを援助した。 生涯独身を貫いた。 生年1552~1612年没。 | ||
ハンガリー王(1572~1608)、ボヘミア王(1575~1611)、ローマ王(1575~1576) | ||||||
22 |
マティアス Matthias |
オーストリア公 1608~1619 神聖ローマ皇帝 1612~1619 |
弟 | マクシミリアン2世の息子。 スペイン領ネーデルランドの統治問題を巡り、兄ルドルフ2世と対立し、王位を簒奪した。 生年1557~1619年没。 | ||
ハンガリー王(1608~1619)、ボヘミア王(1611~1619) | ||||||
23 |
フェルディナント 2世 Ferdinand Ⅱ |
オーストリア公 1619~1637 神聖ローマ皇帝 1619~1637 |
親戚 | フェルディナント1世の孫。 ボヘミア戦争(1618~1625年)の勝利で、ボヘミアとプロテスタント諸侯を弾圧し、ハプスブルグ家の絶対主義体制を築いた。 これを機に30年戦争が始まった。 生年1578~1637年没。 | ||
ハンガリー王(1619~1625)、ボヘミア王(1617~1627) | ||||||
24 |
フェルディナント 3世 Ferdinand Ⅲ |
オーストリア公 1637~1657 神聖ローマ皇帝 1637~1657 |
息子 | フェルディナント2世の息子。 フランス王家とハプスブルグ家の争いに変化していた30年戦争を終わらせ、ヴェストファリア条約を結んだ。 これにより、オランダとスイスが独立した。 生年1608~1657年没。 | ||
ハンガリー王(1625~1647)、ボヘミア王(1627~1646) | ||||||
25 |
レオポルト1世 Leopold Ⅰ |
オーストリア公 1658~1705 神聖ローマ皇帝 1658~1705 |
息子 | フェルディナント3世の息子。 聖職者になるよう育てられたが、兄の死により後継者となった。 3度の結婚で、16人の子供を作ったが、10人が成人できなかった。 平和を大事にする作曲家だった。 しかし、ペストとオスマン帝国に苦労した。 最後はスペイン継承戦争の最中に病死した。 生年1640~1705年没。 | ||
ハンガリー王(1655~1705)、ボヘミア王(1657~1705) | ||||||
26 |
ヨーゼフ1世 Joseph Ⅰ |
オーストリア公 1705~1711 神聖ローマ皇帝 1705~1711 |
息子 | レオポルト1世の息子。 神聖ローマ皇帝の権威回復を目指し、ハンガリーで起こった内乱を鎮定した。 スペイン継承戦争の最中に死んだ。 生年1678~1711年没。 | ||
ハンガリー王(1687~1711)、ボヘミア(1705~1711) | ||||||
27 |
カール6世 Karl Ⅵ |
オーストリア公 1711~1740 神聖ローマ皇帝 1711~1740 |
弟 | レオポルト1世の息子。 兄ヨーゼフの死により、各種王位を継いだ。 1713年、ユトレヒト条約を締結し、フェリペ5世の即位を認めて、スペイン継承戦争を終わらせた。 その翌年、ラシュタット条約を締結し、スペイン領ネーデルランド、ミラノ公国領を得た。 男子に恵まれず、マリア・テレジアに家督を継がせるため、王位継承法を制定した(女子に相続可能にした)。 生年1685~1740年没。 | ||
バルセロナ伯(1705~1714)、パルマ公(1735~1740)、ナポリ王(1707~1735)、シチリア王(1720~1734)、ハンガリー王(1711~1740)、ボヘミア王(1711~1740) | ||||||
28 |
マリア・テレジア Maria Teresia |
オーストリア公 1740~1780 神聖ローマ皇帝 1740~1780 |
娘 | カール6世の娘。 カール6世の死後、家督を継いだが、フランスやスペインの反対に遭い、3年間だけ神聖ローマ皇帝位をバイエルン選帝侯カールに奪われるが、カールが3年で病没したため、その後、マリアの夫であるフランツ1世が神聖ローマ皇帝位に即位した。 しかし、マリアがその実権を握っていた。 軍服や勲章をおしゃれにしたり、軍の改革にも力を注いだ。 娘マリー・アントワネットをフランスのルイ16世に嫁がせた。 「国母」と呼ばれた。 生年1717~1780年没。 | ||
ハンガリー女王(1740~1780)、ボヘミア女王(1740~1741、1743~1780)、パルマ公(1740~1748) | ||||||
29 |
ヨーゼフ2世 Joseph Ⅱ |
オーストリア公 1780~1790 神聖ローマ皇帝 1765~1790 |
息子 | フランツ1世とマリア・テレジアの息子で、マリー・アントワネットの兄。 フランツ1世の死後、神聖ローマ皇帝位を継いだ。 農奴制を廃止し、病院や孤児院を作らせたため、「改革王」と呼ばれた。 母マリアと共同統治した。 生年1741~1790年没。 | ||
ハンガリー王(1780~1790)、ボヘミア王(1780~1790) | ||||||
30 |
レオポルト2世 Leopold Ⅱ |
オーストリア公 1790~1792 神聖ローマ皇帝 1790~1792 |
弟 | フランツ1世の息子。 ヨーゼフ2世の行った「農奴制の廃止」を取り消した。 生年1747~1792年没。 | ||
ハンガリー王(1790~1792)、ボヘミア王(1790~1792)、トスカーナ公(1765~1790) | ||||||
31 |
フランツ2世 Theuderic IV フランツ1世 フィレンツ1世 |
オーストリア皇帝 1804~1835 神聖ローマ皇帝 1792~1806 |
息子 | レオポルト2世の息子。 オーストリア皇帝としてはフランツ1世。 ハンガリー王としてはフィレンツ1世。 ナポレオン1世に蹂躙され、1806年神聖ローマ帝国は解体、以後、その領地はオーストリア帝国となった。 娘マリー・ルイーズをナポレオン1世に嫁がされた。 ナポレオン1世の没落後、ヨーロッパの秩序回復のための「ウィーン会議」(1814~1815年)に参加した 生年1768~1835年没。 | ||
ハンガリー王(1792~1835) | ||||||
32 |
フェルディナント 1世 Ferdinand Ⅰ フェルディナーン 5世 Ferdinánd Ⅴ |
オーストリア皇帝 1835~1848 |
息子 | フランツ2世の息子。 ハンガリー王としてはフェルディナーン5世。 生年1793~1875年没。 | ||
ハンガリー王(1830~1848) | ||||||
33 |
フランツ・ヨーゼフ 1世 Franz Joseph I フェレンツ・ヨーシェフ1世 Ferenc József |
オーストリア皇帝 1830~1916 |
甥 | フェルディナント1世の甥。 18歳で即位した。 ハンガリー王としてはフェレンツ・ヨーシェフ1世。 しかし、イタリア、ハンガリーと続けてオーストリア帝国から独立され、ハプスブルグ家の権威は失墜した。 その後(1914年)、ボスニアの首都サラエボを訪れていたオーストリア帝国皇太子フランツ・フェルディナントがセルビア人に殺され(サラエボ事件)、第一次世界大戦が始まった。 生年1830~1916年没。 | ||
ハンガリー王(1830~1916) | ||||||
34 |
カール1世 Karl Ⅰ カーロイ4世 Károly Ⅳ |
オーストリア皇帝 1916~1918 |
弟の孫 | 最後のオーストリア皇帝。 ハンガリー王としてはカーロイ4世。 1918年、第一次世界大戦の終戦後、オーストリア帝国は解体され、「オーストリア共和国」となった。 生年1887~1922年没。 | ||
ハンガリー王(1916~1918) | ||||||
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※ドイツ諸侯・・・ザクセン、バイエルン、シュバーベン、ボヘミア、メーレン、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン、ロートリンゲン、ブラバンド等の公爵、ブランデンブルク、マイセン、ラウジッツ等の辺境伯、ライン、ザクセンの宮中伯、チューリンゲン地方伯、アンハルト伯、ホラント伯、ハプスブルク伯、ニュルンベルク城伯等。加えて、大司教、司教、修道院長の高位聖職者約60名。 ※選帝侯・・・帝国皇帝を決める選挙に票を持つ諸侯。当初は7人だったが、後に9人になり、最後には12人となった。 ※創作物に使用する場合は敬意をもって使用のこと。 ※世数表示は見間違いを防ぐため、アラビア数字で表記した。 ※(?)=調査、確認中。 |
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