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代 | 皇帝名 | 在位期間 | 皇帝朝名 |
関 係 |
備考 | |
ー |
ユリウス・カエサル Julius Caesar |
ー |
ユリウス=クラウディウス家 Julius=Claudius |
ー | 共和制だったローマで、初の独裁官となり、軍事独裁政治で帝政の基礎を築いた。自身は皇帝にはなっていない。古代エジプトのファラオ クレオパトラ7世と結ばれ、男児を成した。 マルクス・アントニウス Marcus Antonius は執政官をしていたため、カエサル亡き後、アントニウスは自分が後継者と思っていたが、カエサルは遺言で養子のオクタウィアヌスを指名した。 その後、「カエサル」とはローマ皇帝の称号とされた。「賽は投げられた」とは、禁を破ってローマに攻め入る時の言葉。 生年BC100~BC40年没。 | |
1 |
オクタウィアヌス (アウグストゥス) Octavianus (Augustus) |
BC63~14 | 養子 | カエサルの死後、東西に分裂したローマ帝国を統一したことで、カエサルの養子オクタウィアヌスは元老院から、ローマ軍の最高司令官の地位と「アウグストゥス(尊厳のある者)」の尊称を受けた。 その後、宗教の最高地位「大神祇官(だいしんぎかん)」に指名され、ローマの初代皇帝となった。 そこで彼の正式名称は「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」 Imperator Caesar Augustusとなった。 82の神殿を建築・再建し、ローマの基準通貨制度を確立し、文学も奨励した。彼の統治の確立から五賢帝の時代まで「パクス・ロマーナ Pax oma(平和なローマ)」と呼ばれている。生年BC27~14年没。 「八月 August」の語源となった。 | ||
2 |
ティベリウス Tiberius |
14~37 |
妻 の 連 れ 子 | br
当初、先代皇帝アウグストゥスは姉の孫ゲルマニクス Germanicusをティべリウスの養子とさせ、ゲルマニクスを3代皇帝にしようと画策していたが、 ゲルマニクスが毒殺され、それがティベリウスの仕業と疑われた。またティベリウス自身の息子ドルスス Drususに先立たれたことで、カプリ島に隠遁した。農業と貿易を奨励した。生年BC42~37年没 | ||
3 |
カリグラ Caligula |
37~41 | 曾孫 | 本名はガイウス Gaiusだが、「カリグラ(軍靴)」の意味のあだ名で呼ばれた。 二代皇帝ティベリウスの姪の息子(養子)ゲルマニクス Germanicusと孫のアグリッピナ Agrippinaの息子で、初代皇帝アウグストゥスに三代目皇帝に指名された。 27~33年にかけて、母や二人の兄を先帝ティベリウスに対する陰謀を企てた罪で殺された。 そのため、皇帝就任後、わずか半年で暗殺や陰謀の妄想に取り付かれ、周囲の人間と元老院議員を次々と粛清した。 41年に親衛隊将校たちに暗殺された。「愚帝」と呼ばれた。生年12~41年没。 | ||
4 |
クラウディウス Claudius |
41~54 | 親戚 | brゲルマニクスの弟。脳性麻痺だった指摘もあるが、それが芝居だったとの説もある。 親衛隊や元老院を尊重し、解放奴隷を要職につける改革も行った。 何度も結婚離婚を繰り返した後、姪のアグリッピナ Agrippinaと結婚した。 しかし、アグリッピナはクラウディウスの前妻との息子で皇帝位継承者ブリタニクス Britannicusと、クラウディスまで毒殺した。 生年BC10~54年没。 | ||
5 |
ネロ Nero |
54~68 | 養子 | マルクス・アントニウスの妻だったオクタウィア Octaviaの娘がドミティウス・アエノバルブス Domitius Ahenobarbusと結婚し、その孫でクラウディウス家の養子となった。 わずか16歳で皇帝位についたため、セネカSenecaや親衛隊長ブルス?の後援を得て最初は善政をしいた。 芸術と戦車競走を愛した。 しかし、母アグリッピナを何度も暗殺を試みた結果、それに成功し、以降、次々と何人も粛清、処刑する。 妻オクタウィア Octaviaを離縁し、人妻ポッパエア Poppaeaを奪い、後に女装して解放奴隷の妻にになった。 ローマに大火が起こった時、ネロが広大な「黄金宮殿(ドムス・アウレア Domus Aurea)」を建てるためだったとの噂がたち、それをキリスト教信者のせいにした。 キリストの弟子ペテロと信者パウロも処刑した。 68年に属州の反乱が続き、元老院から「国家の敵」とされたことで、30歳で自殺した。 「暴君」と呼ばれた。 生年37~68年没。 | ||
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6 |
ガルバ Galba |
69 |
混乱期 |
ー | 前皇帝ネロを掲げて、打倒して皇帝位に就いた。 しかし、元老院議員を処刑したり、有能なピソ Pisoを後継者にしようとしたため、親戚でガルバを支えた次皇帝オトにピソと共に殺害された。 即位からわずか三ケ月だった。 生年BC3~69没。 | |
7 |
オト Otho |
69 | ー | 前皇帝ガルバを殺したが、オトを認めない次皇帝アウルス・ヴィテリウスAulus Vitelliusにローマに攻め入れられ、それを知り自殺した。 オトも3ヶ月しか皇帝位を守れなかった。 前々皇帝ネロの親友だったが、ネロの二番目の妻ポッパエアを巡って対立した。 生年32~69年没。 | ||
8 |
ヴィテリウス Vitellius |
69 | ー | 前皇帝オトを倒したヴィテリウスだったが、特に功績も挙げられないまま、一年ほどで次皇帝ウェスパシアヌスの攻撃に敗北した。 生年15~69年没。 | ||
9 |
ウェスパシアヌス Vespasianus |
69~79 |
フラウィウス家 Flavius | ー | 地方都市の中流階級出身で、カリグラ以降の皇帝に軍人として仕えた。 皇帝になってからはローマの財政の立て直しに努め、コロッセウム Colosseumの建設に着手した。 生年9~79年没。 | |
10 |
ティトゥス Titus |
79~81 |
息 子 |
父親の前皇帝ウェスパシアヌスの元老院での演説で後継者とされ、父親の着手したコロッセウムを完成させた。 優しい性格のため、感染病人の看病にあたり、自身も感染し亡くなった。 この治世にヴェスヴィオ火山の噴火があり、ポンペイ Pompeiiが壊滅した。 生年39~81年没。 | ||
11 |
ドミニティアヌス Domitianvs |
81~96 | 弟 | しばらくは善政を敷いたが、やがて元老院や騎士階級を粛清したり、女性、男性問わず色欲に溺れた。 96年のクーデターで暗殺された。 その治世の間、剣闘士や戦車競走が盛んに行われた。 「悪帝」と呼ばれ、「記憶の断罪(ダムナティオ・メモリアエ Damnatio Memoriae)」として公式記録から消去された。 生年51~96年没。 | ||
12 |
ネルウァ Nerva |
96~98 |
ネルウァ=アントニヌス家 Nerva=Antoninus |
ー | 代々の皇帝に法律家として仕えていたが、前皇帝ドミニティアヌスの暗殺後、元老院にて選出された(元老議員の家の出身)。 ドミニティアヌスの私財を没収し、ローマの財政立て直しに充てた。 自身も高齢だったせいか、周りの職位に老人ばかりを選んで、「老人政治」と呼ばれた。 元老院議員を決して殺さない「殺さない誓い」をたてた。 近衛隊の掌握ができず、軍の推すトラヤヌスを養子として次皇帝にすることを強制された。 穀物貯蔵庫の建設くらいしか、記録に残ってない。 「五賢帝」と呼ばれる時代の始まり。 生年30~98年没 | |
13 |
トラヤヌス Trajanus |
98~117 | 養子 | スペイン生まれで、スペインの軍司令官だったが、97年上ゲルマニア Germania Superiorの知事になり、同年前皇帝トラヤヌスの養子となった。 軍人としてキャリアを積んでいたためか、皇帝就任後は積極的にローマ帝国の領土を増やしていった。 国境のダキア Dacia(現在のルーマニア)の侵略に対し、自ら戦地に赴き、 二度繰り返された戦争後、ダキアはローマ帝国の属州になった。 そのダキアで金鉱が発見され、ローマの財源となった。 人材の若返りを目指したが、元老院も尊重し、前皇帝の「殺さない誓い」を継承した。 貧民救済にも取り組み、女子や庶子も対象とした「育英基金(アリメンタ alimenta)」を始めた。 「最善の元首(プリンケプス・オプティムス・マクシムス Purinkepus Optimus Maximus)」と呼ばれた。 その死後、次皇帝ハドリアヌスと愛人関係にあった妻プロティナ Plotinaの「トラヤヌスはハドリアヌスを次皇帝に指名した」との言葉が実行された。 生年53~117年没 | ||
14 |
ハドリアヌス Hadrianus |
117~138 | 養子 | 前皇帝トラヤヌスの従弟の息子から、その養子となった。 芸術を愛し、当時最も発展していたギリシャに留学中、元老院議員4人が「ハドリアヌス暗殺計画」の容疑でその後見人アッティアヌス ?によって処刑された。 しかし、元老院で自身は「殺さない誓い」を継承することを表明した。 ローマ帝国の破綻を予測し、前皇帝の広げた領土のメソポタニア、アルメニア、アッシリアから軍を撤退させた。 前皇帝の「アリメンタ」を継承し、更に母子家庭の援助を制度化した。 ローマに「万神殿(パンテオン Pantheon)」などを建造した。 当時、領土としていたイングランドに「ヘイドリアン・ウォール Hadrian's Wall」の建造を始めた。 領土各地の視察に努め、その先々でも建造物を増やしていった(「ハドリアヌス・ルネサンス」)。 その最中、ギリシャの荒廃に対し、多額の援助をした。 私生活では美少年アンティノウス Antinousを愛し、彼の死後、ナイル川にアンティノウスという都市を造った。 病魔に侵され、信頼していた重臣アントニヌスを養子にし、後継者に指名した。 ただし、アントニヌスには次の皇帝にマルクス・アウレリウス、更にルキウス・ウェルスを養子にし、継承させるという条件が出された。 生年76~138年没。 | ||
15 |
アントニヌス・ピウス Antoninus Pius |
138~161 | 養子 | 「ピウス」とは「敬虔な」の意味。 皇帝位に就くと前皇帝ハドリアヌスの神格化に努めた。 自身の莫大の財産を帝国に寄付し、帝国の財政を健全化した。 在位中、ローマ帝国は侵略もせず、攻撃も受けず、真の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」が訪れたとされた。 奴隷虐待を違法化し、妻ファウスティナ Faustinaの死後、貧困家庭を援助する「ファウスティナ財団」を創設した。 無駄な公務員をリストラした。 娘ファウスティナを次皇帝マルクス・アウレリウスと結婚させ、皇帝妃とした。 生年86~161没 | ||
16 |
マルクス・アウレリウス Marcus Aurelius |
161~180 | 養子 | 14代皇帝ハドリアヌスの指名により皇帝位に就いた。 ルキウス・ウェルスと共同統治。 168年、ルキウスと共にゲルマニアに遠征中、ルキウスが病死した。 その後、ローマは戦争、疫病、災害にたて続きに襲われた。 統治中、パルティア Partia戦争、マルコマン二 Marcomanni戦争が起こった。 多神教のローマにおいて、台頭してきたキリスト教徒弾圧を黙認した。 ストア哲学に通じ、「哲人皇帝」と呼ばれた。「五賢帝時代」の終わりと言われる。 生年121~180年没。 | ||
ルキウス・ウェルス Lucius Verus |
161~169 | 兄弟 | 14代皇帝ハドリアヌスの指名により皇帝位に就いた。 マルクス・アウレリウスと共同統治。 マルクスと違い、政治に興味を示さず、女好きの道楽者だった。 しかし、侵攻してきたアルメニアの討伐を、マルクス命じられてそれに勝利するが、軍はローマにペストを持ち帰ってしまった。 168年、マルクスと共にゲルマニアに遠征中、その旅の中で病死した。 生年130~169年没。 | |||
17 |
コンモドゥス Commodus |
180~192 | 息子 | マルクス・アウレリウスとアントニヌス・ピウスの娘ファウティナの息子として生まれた。 酒と女に溺れ、自ら剣闘士として戦った。 意見する元老院議員も粛清したりと、「ローマ史上最悪の皇帝」と呼ばれたが、結局元老院によって暗殺された。 生年161~192年没 | ||
18 |
ペルティナクス Pertinax |
193 |
五皇帝内乱時代 |
ー | 前皇帝コンモドゥスを暗殺後、それを計画した元老院によって擁立されたが、反発する親衛隊に暗殺された。 わずか三ヶ月のことだった。 生年126~193年没。 | |
19 |
デディウス・ユリアヌス Didius Julianus |
193 | ー | 前皇帝ペルティナクスを暗殺した親衛隊によって皇帝位が競売にかけられ、金貸しで政治家でもあったデディウスが落札した。 生年133~193年没。 | ||
ー |
ぺスケンニウス・ニゲル Pescennius Niger |
193~194 | ー | 東方軍によって、シリア総督だったニゲルが擁立されたが、194年セウェウルスによってうち滅ぼされた。 生年135~194年没。 | ||
ー |
クロディウス・アルビヌス Clodius Albinus |
193~197 | ー | ブリタニア軍によって、軍人のアルビヌスが擁立されたが、197年セウェウルスによってうち滅ぼされた。 生年150~197年没。 | ||
20 |
セプティミウス・ セウェルス Septimius Severus |
193~211 |
セウェルス家 Severus |
ー | ローマ史上、初の北アフリカ出身。 193年、アフリカのローマ属州の生まれで、上パンノニア Pannonia Superiorの総督となり、皇帝位に推挙された。 親衛隊を属州出身者に門戸を広げ、軍隊内の差別も解消した。 禁止されていた現役兵の結婚も許可した。 生年146~211年没 | |
21 |
ゲタ Geta |
209~211 | 息子 | カラカラとの共同統治。 兄弟は反目しあい、母親の前でカラカラに殺された。 生年189~211没。 | ||
カラカラ Caracalla |
209~217 | 兄 | 本名はルキウス・セプティウス・バッシアヌスLucius Septimius Bassianus。 「カラカラ」とは「フード付き外套」の意味のあだ名。 ゲタとの共同統治。 ゲタや自身の妻を含め、自身の意に反する者は容赦なく粛清した。 「アントニヌス勅法」を制定した。 自身を「アレキサンダー大王の生まれ変わり」と称し、アレクサンドリアに遠征し、多数の市民を虐殺した。 当然、多くの反発を買い、暗殺された。 「カラカラ浴場」はマンガ「テルマエ・ロマエ」(ヤマザキマリ著)のモデルとして知られる。 生年188~217年没。 | |||
22 |
マクリヌス Macrinus |
217~218 |
ー |
ー | 次皇帝ヘリオガバルスと戦って戦死した。 生年164~218年没。 | |
23 |
ヘリオガバルス Heliogabalus |
218~222 |
セウェルス家 Severus |
ー | 218年、22代皇帝カラカラの息子と主張し、前皇帝マクリヌスを倒して、14歳で皇帝位に就いた。 女装趣味があり、自ら街頭に立って客引きをしていたと言われる。 在位4年で母ともども暗殺された。 生年204~222年没。 | |
24 |
アレクサンデル・セウェルス Alexander Severus |
222~235 | 従弟 | 前皇帝暗殺後、13歳で即位した。 戦争に対する政策で、臆病で軟弱な皇帝と呼ばれた。 生年208~235年没。 | ||
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「三世紀の危機」(約50年間) | ||||||
? |
ディオクレティアヌス Diocletianus |
284~305 |
軍人帝政時代 |
ー | 「三世紀の危機」を終結させた軍人帝政時代の祖。 解放奴隷の息子だったが、ペルシアとの戦いで名をあげ、皇帝位に就いた。 自身は帝国東部(首都ニコメディア)、戦友マクシミアヌス Maximianusが帝国西部(首都ミラノ)を統治した(2人の共同統治)。 更に293年、副帝コンスタンティウス ConstantiusとガレリウスGaleriusを加え、「テトラルキア Tetrarchia(四分割統治)」を行った。 皇帝の権威を高めようと、自身を「(ローマ神話の)最高神ユピテル Jūpiterの子」と称した。 属州に官僚制を導入し、また元老院の権威を弱めて、「ドミナトゥス Dominatus(専制君主制)」を進めようとした。 ローマ神話の崇拝を義務化し、キリスト教を弾圧した。 305年、自ら皇帝を辞した。 生年244~305年没。 | |
? |
コンスタンティヌス1世 Constantinus Ⅰ |
312~337 |
コンスタンティヌス家 Constantinus |
ー | 前皇帝ディオクレティアヌス引退後、四頭政(テトラルキア tetrarchy)を引き継いだ。 (東方正帝ガレリウス Galerius、副帝マクセンティウス Maxentius、西方正帝コンスタンティウス・クロルス Constantius・Chloros、副帝セウェルス Severus) クロルスの死後、副帝だったセウェルスが正帝となったが、 これを不満としたマクシミアヌス Maximianusが決起したものの、クロルスの息子コンスタンティヌスがこれを倒し、西方ローマ皇帝位に就いた。 (東方正帝リキニウス Licinius) その後、二人は対立し、コンスタンティヌスがリキニウスを降伏させ、単独皇帝になった。 通貨改革を行い、「ソリドゥス Solidus金貨」を流通させた。これはその後700年もの間、世界の基軸通貨となった。 前皇帝の時代に分割された帝国を統一するために、首都ビザンティウム Byzantium(現イスタンブール)を建設した。 「大帝」と呼ばれた。313年、キリスト教を公認する「ミラノ勅令 Milan Decree」を出した。 自身も死の直前、洗礼を受けてキリスト教徒となった。ニケーア公会議を開いた。 日曜日を休息日と決め、イエス・キリストの生誕日を12月25日と決定した。 「ビザンツ帝国初代皇帝」ともされる。 生年272~337年没。 | |
? | 分割統治時代 | 337~353 | 息子たち | 前皇帝コンスタンティヌス(大帝)死後、三人の息子の分割統治となった。 | ||
? |
コンスタンティウス2世 Constantius Ⅱ |
353~361 | 息子 | 前皇帝コンスタンティヌス(大帝)死後、三人の息子の分割統治となったが、末弟がコンスタンティウス2世として単独で皇帝位に就いた。 猜疑心が強く、粛清を繰り返した。副帝に従兄弟のユリアヌスを指名し、自身に男子がいなかったため、次皇帝にユリアヌスを指名した。 生年317~361年没。 | ||
? |
ユリアヌス Julianus |
361~363 | 従兄弟 | 皇帝コンスタンティヌスの甥。 姑息な方法でキリスト教の弾圧をしたため、「背教者」と呼ばれた。 ペルシア遠征にて戦死したが、キリスト教信者による暗殺とも言われている。 生年331~363年没。 | ||
? |
ウァレンティニアヌス一世 Valentinianus Ⅰ |
364~375 |
ウァレンティニアヌス家 Valentinianus |
選出 | ローマ帝国の属州パンノニア Pannoniaの生まれで、ゲルマン人。 前皇帝ユリアヌスの死後、ローマ軍の中で武功を挙げていた、ウァレンティニアヌスが皇帝に選出された。 (共同皇帝に弟ウァレンス Valens。) 信仰の自由を認める「ミラノ勅令」を再公布した。 戦争で没した。 生年321~375年没。 | |
? |
グラティアヌス Gratianus |
367~383 | 息子 | 父の前皇帝ウァレンティニアヌス1世の死後、長男のグラティアヌス(西方)と、4歳の弟ウァレンティニアヌス2世(東方)が皇帝位を継いだ。 戦争で没した。 生年359~383年没。 | ||
? |
テオドシウス1世 TheodosiusⅠ |
379~395 |
テオドシウス家 Theodosius |
分割統治していた兄グラティアヌスと、弟ウァレンティニアヌス2世だったが、 378年グラティアヌスが勝利し、テオドシウスに東ローマの統治を持ち掛け、テオドシウス1世がこれを受けて皇帝位に就いた。 前皇帝ウァンティニアヌス1世に仕え、東西ローマ帝国を統一統治した最後の皇帝。 東部にゲルマン人の定住を認めた。 392年、キリスト教(三位一体派)を国教に制定し、異宗派、異教徒を迫害した。 2人の息子に東西ローマの分割統治をさせた。 生年347~395年没。 | ||
以降 |
分割統治 |
395~ | 息子たち | 前皇帝テオドシウス1世の死に伴い、息子たちアルカディウス Arcadius(18歳)が東ローマ、ホノリウス(11歳)Honoriusが西ローマの完全に分割統治となった。 しかし、西ローマ帝国は有能なスティリコ将軍の補佐を受けたが、その死後、ゴート族に首都ローマを奪われた。 また467年、西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルス Romulus Augustulusがゲルマン人に退位させられ、皇位は東ローマ帝国皇帝に返還された。 この後、ローマ帝国は統一されることはなかった。 | ||
? |
アルカディウス Arcadius |
東ローマ帝国 395~408 | 息子 | 父皇帝テシオドシウス1世の遺言により、東ローマ帝国皇帝となった。 生年377~408年没。 | ||
? |
ホノリウス Honorius |
西ローマ帝国 384~423 | 弟 | 父皇帝テシオドシウス1世の遺言により、西ローマ帝国皇帝となった。 無気力により、将軍スティリコが政務に当たった。 しかし、元老院の甘言で、ホノリウスはスティリコを処刑した。 スティリコの死後、西ローマ帝国は簡単に西ゴート族の侵攻の前に滅びてしまった。 生年384~423年没。 | ||
※ローマ帝国の通貨制度・・・1アウレウス金貨=25デナリウス銀貨=100セステルティウス銅貨。 ※パルティア・・・現在のイラン辺り。 ※マルコマン二・・・ローマ帝国北方のマルコマンニ人。 ※アントニヌス勅法・・・ローマ帝国内に住む自由人すべてに市民権を与えるものだが、同時に租税対象になることを意味した。 ※「三世紀の危機」・・・50年間の間に70人の皇帝が即位した時代。 ※ニケーア公会議・・・コンスタンティヌスが小都市ニケーアで開催し、キリスト教の教義を統一した聖職者会議。結果、アタナウシス派を正統、アリウス派を異端とした。 ※ビザンテイウム・・・大帝コンスタンティヌスの死後、コンスタンティノープル Constantinopleと改名された。 ※創作物に使用する場合は敬意をもって使用のこと。 ※世数表示は見間違いを防ぐため、アラビア数字で表記した。 ※(?)=調査、確認中。 |
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