神聖ローマ帝国皇帝名一覧

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※ドイツ王(東西フランク王、ローマ王)がローマ教皇の戴冠式を受けることによって、神聖ローマ帝国 Holy Roman Empire皇帝になる。
※西ローマ帝国→カール帝国→神聖ローマ帝国と変遷した。
※ローマ帝国の領土・・・ドイツ、オーストリア、イタリア、チェコ、スイス、オランダ、ベルギーの周辺。
皇帝名 在位 王朝名
備考
カール
Karl Ⅰ
ドイツ王
800~814
カロリング家
Caroling
第15代フランス国王ピピン3世とベルトレドの長男。771年に弟カールマンの死後、単独で再び統一されたフランク王国の国王となった。主にカール大帝とよ呼ばれる。 800年にローマ教皇レオ3世Papa Leo Ⅲから王冠を戴き、476年から324年間空白だった「西ローマ帝国」皇帝位に就いた。以降、ローマ文化、キリスト教、ゲルマン文化の融合によるカロリング・ルネサンスという文化運動が始まった。 トランプのハートのキングのモチーフになった。 768生年~814年没。
ルードヴィヒ4世
Ludwig IV
東フランク王
899~911
子孫 カロリング家の最後の王。 ここでカロリング家は断絶した。 生年893~911年没。
コンラート1世
Konrad I
東フランク王
911~918
コンラート家
Konrad
前王ルードヴィヒ4世の母方の甥。 生年881~918年没。
ハインリヒ1世
Heinrich Ⅰ
東フランク王
919~936
ザクセン家
Sachsen
縁戚 前東フランク王コンラート1世の治世において、強大な勢力で、東フランクから独立を望むザクセン公爵を抑えるために、コンラート1世は世襲を諦め、 その臨終間際、ザクセン公ハインリッヒ1世を次王に指名した。ここからフランク人ですらないザクセン人の治世が始まった。 ザクセン公爵として、その領内を幾度に渡り異民族からの侵略を防いだため、その功績は国民の信頼を得た。 「狩猟王」と呼ばれた。 生年876~936年没。
1 オットー1世
Otto Ⅰ
東フランク王
936~973
神聖ローマ皇帝
962~973

父王ハインリッヒ1世の政策を踏襲し、国内にその血族を配置したが、彼らは地方部族と結託したため、オットー1世は唯一の全国組織の教会を利用(帝国教会政策)した。 教会領を保護し、それぞれ独自の関税権、市場権、貨幣鋳造権を認め、伯爵領程度の権能を持たせた。これによりオットー1世はローマ教皇ヨハネス12世から「オットーの特許状」を与えられ、 その地位を「皇帝アウグストゥス」としての統治を盤石にした。しかし、教皇はすぐにイタリア王ベレンガリオと共に敵対したために、オットー1世は新教皇レオ8世を建て、イタリアを接収した。 生年912~973年没。
2 オットー2世
Otto Ⅱ
ドイツ王
961~983
神聖ローマ皇帝
973~983

父王オットー1世を倒し、その地位「皇帝アウグストゥス」を奪ったが、976年以降は「ローマ人たちの皇帝アウグストゥス」と名乗った。生年955~983年没。
3 オットー3世
Otto Ⅲ
ドイツ王
983~1002
神聖ローマ皇帝
996~1002

父王オットー2世と同じく、「ローマ人たちの皇帝アウグストゥス」と名乗った。 ローマ教皇グレゴリウス5世から戴冠した。 生年980~1002年没。
4 ハインリヒ2世
Heinrich Ⅱ
ドイツ王
1002~1024
神聖ローマ皇帝
1014~1024

オットー1世の甥の息子として生まれ、オットー三世と同じく、「ローマ人たちの皇帝アウグストゥス」と名乗った。 生年973~1024年没。
5 コンラート2世
Conrad Ⅱ
ドイツ王
1024~1039
神聖ローマ皇帝
1027~1039
ザリエリ家
(フランケン家)
Salier
Franken

オットー1世の娘ロイトガルドのひ孫として生まれ、ドイツ諸侯から選ばれた。 このコンラート2世の時代に初めて、公式文書に「ローマ帝国」の文字が刻まれた。 ザリエリ家はドイツの北フランケン地方に領地をもっていたので、別名フランケン家と呼ばれる。 このころ王家断絶したブルゴーニュ公国(ブルゴーニュ地方の一部のフランス公領の残りの地域)を奪い取り、自らブルゴーニュ王とも名乗った。 (ここで、イタリア王国、ドイツ王国、ブルゴーニュ王国の皇帝となった。) ザクセン家の「帝国教会政策」を引き継ぎ、王領地を拡大しながら、その経営を仕える不自由民(ミニステリアーレス ministeriales)に任せ、後にその地位を世襲にすることで、王領地の権威を強固にした。 生年990~1039年没。
6 ハインリヒ3世
Heinrich Ⅲ
ドイツ王
1039~1056
ローマ王
1039~1046
神聖ローマ皇帝
1046~1056

父王コンラート2世の政策を引き継ぎ、「黒王」と呼ばれた。 コンラート2世の死後7年後に教皇より冠位を戴いた(この7年間は「ローマ王」と記されている。 ザリエリ家の本拠地のほか、相互相続契約により、シュバーベン Schwaben公領、バイエルン Bayern公領を手に収めた。 更には隣接するボヘミア、ハンガリーまでも臣従させた。 その後、皇帝を無視したフィレンツェを含むトスカーナ伯ボニフィツィオが暗殺され、その未亡人ベアトリーチェ Beatriceは、実家のロレーヌLorraine公家から「髭の王様」ゴッドフレード Goffredoを夫にした。 新トスカーナ伯ゴッドフレードもまた皇帝を無視し、周辺の地域を侵略したが、ハインリヒ3世が動くとすぐにベアトリーチェ母子を置いて逃亡した。 ボニフィツィオ、ゴッドフレードの司教領侵略、諸侯の教会職の簒奪に対し、ブルゴーニュ地方のベネディクト Benedict会クリュニー Cluny修道院から「クリュニーの(教会)改革運動」が起こる。 ハインリヒ3世はこれを利用しようとしたが、ローマ教皇庁では、クリュニー修道士イルデブランド Ildebrandoが活躍していた。 生年1017~1039年没。
7 ハインリヒ4世
Heinrich Ⅳ
ドイツ王
1056~1105
神聖ローマ皇帝
1084~1105

父王ハインリヒ3世が1065年に急死した時、ハインリヒ4世はドイツ王として即位したが、まだ6歳だったため、母アグネスが摂政に就いた。 これにより、逃亡していたゴッドフレードは臣従し、イタリアに舞い戻る。 ゴッドフレードは「クリュニー改革運動」を利用し、ローマ教皇庁の実権を握った。 時を同じくして、ハインリヒ3世の遠縁にあたり腹心でもあったローマ教皇ウィクトル2世 Victo Ⅱが死去し、ゴッドフレードはアグネス母子を無視し、実弟ステファヌス10世 Stephanus Ⅹを新教皇とすることに成功した。 しかし、ゴッドフレードに皇帝位を授けようとしたステファヌス10世は1年で死去、計画は失敗した。 次の新教皇ニコラウス2世 Nicolaus Ⅱの就任も、アグネス母子の意向は無視されたが、ニコラウスは皇帝の権力を弱めるために(枢機卿となっていたイルデブランドの権力で)、以降の教皇の選出は枢機卿団の相互選挙(コンクラーべ Conclave)とする教皇令(イルデブランドの作文)を出した。 そして、その次の教皇アレクサンデル2世 Alexander Ⅱの後、イルデブランド自身が新教皇グレゴリウス7世 Gregorius Ⅶとなった。 当初、アグネス母子はケルン Köln大司教のアンノ Annoと会談したが、そのことで幼帝ハインリヒ4世はケルンに軟禁された。 更に諸侯からマインツ Mainz大司教の親類ベルタ Berthaを妃にと押し付けられる。 しかし、成人したハインリッヒ4世は与党を結集し、オストマルク Ostmark辺境伯を拘留、バイエルン公領を没収し、与党のヴェルフェン Werfen家に与えた。 これに対し、教皇グレゴリウス7世は「皇帝は教皇に服従せよ」との書簡を送った。 一方、ハインリヒ4世とベルタはグレゴリウス7世の不倫の噂を盾に対抗したが、教皇グレゴリウスはハインリヒを破門した。 ハインリヒは三日間、グレゴリウス7世の居城の前に裸足で立ち続け、許しを乞うた。 これが「カノッサの屈辱」と言われる事件である(かなり脚色しているらしい)。 しかし、その後、ハインリヒ4世とグレゴリウス7世は再び対立し、グレゴリウスが味方にしたノルマン人のローマでの略奪行為にローマ市民はグレゴリウス7世を非難し、グレゴリウス7世は客死した。 その後、諸侯はシュバーベン公ルドルフ Rudolf、次いでルクセンブルク Luxemburg公ヘルマン Hermannを対立皇帝として擁立した。 更に息子コンラートとハインリヒ4世の後妻であるロシア公女プラセーデ Prassedeが手を組み、父王ハインリッヒ4世は廃位させられた。 生年1050~1106年没。
8 ハインリヒ5世
Heinrich Ⅴ
ドイツ王
1106~1125
神聖ローマ皇帝
1111~1125

父王ハインリヒ4世を裏切り、皇帝位を奪ったが、自身が子宝に恵まれず、皇帝位をシュタウフェン家に譲ろうとしたが、諸侯はこれを嫌い、ザクセン Sachsen公ズップリンゲンベルク Süpplingenburgerロタール3世 Lothar Ⅲを擁立し、その後10年間内戦状態になった。   教皇カリクストゥス2世 Callixtus Ⅱと、聖職者の叙任権は教皇にあるという、ヴォルムス Worms協約を結んだ。 その後、両者がこの協約を破棄した。 また、ドイツ王、イタリア王、ブルゴーニュ王としての皇帝位に「神聖な」という言葉がつくことになった。 生年1086~1125年没。
9 ロタール3世
Lothar Ⅲ
ドイツ王
1125~1137
神聖ローマ皇帝
1133~1137
ズップリンゲンベルグ家
Süpplingenburger
前皇帝ハインリヒ5世の統治下、諸侯に擁立され、10年の内戦の後、ドイツ王位に就いた。 次いで教皇インノケンティウス2世 Innocentius Ⅱに臣従する礼を取り、1133年皇帝位に就いた。 生年1075~1137年没。
コンラート3世
Conrad Ⅲ
フランケン公
1138~1152
ドイツ王
1138~1152
シュタウフェン家
staufen
第7代皇帝ハインリヒ4世の孫。 前皇帝ロタール3世の死後、その娘婿ヴェルフェン家 Welfenハインリヒが名乗り出たが、ハインリヒ4世から与えられたバイエルン公、前皇帝ロタール3世の残したザクセン公領を得たために、 諸侯の反感を買い、退位させられた。 そして、諸侯はシュタウフェン家コンラート3世を擁立し、ドイツ王位、皇帝位(戴冠はしていない)に就いた。 この頃からシュタウフェン家とヴェルフェン家の、ドイツ王位、皇帝位をめぐる対立が激化した。 フランス王ルイ7世と共に第二回十字軍に参加した。 シュタウフェン家の基礎は築いたが、自身は神聖ローマ皇帝にはならなかった。 生年1093~1152年没。
10 フリードリヒ1世
Friedrich Ⅰ
ドイツ王
1152~1190
神聖ローマ皇帝
1155~1190
父方の叔父がシュタウフェン家前皇帝ロタール3世、母方の叔父はヴェルフェン家ハインリヒ。 よって、ドイツ国民、イタリア国民の期待を受け、赤髭公(バルバロッサ Barbarossa)と呼ばれた。 フリードリヒ1世は皇帝による世界支配を目指したが、ローマ教皇、叔父ハインリヒ獅子公、1167年に成立したロンバルディア都市同盟 Lega Lombardaがこれに対抗した。 ロンバルディア都市同盟がイタリアの王と認めないため、6回のイタリア遠征をした。 その遠征に協力したバーベンベルク Babenberg家ヤミソルゴットにバイエルンから切り離したオーストリア新公爵領を、女子相続も認める世襲相続として与えた。 フリードリヒ1世は息子ハインリヒ6世をわずか4歳でドイツ王にしたことで諸侯たちから反感を買い、4回目のイタリア遠征で失敗する。 その時の戦犯にハインリヒ獅子公を選び、獅子公はイギリス王ヘンリー2世の元へ身を寄せた。 教皇ハドリアヌス4世 Hadrianus Ⅳ、アレクサンドル3世 Alexandre Ⅲと対立し、ロタール3世の例に習い、ハドリアヌスに臣下の礼を示したが、ハドリアヌスは不遜だったため、フリードリヒ1世は皇帝位を神権化するために以降、「神聖帝国」を名乗った。 アレクサンドルは自らの名前を冠した都市アレッサンドリア Alessandriaを建設し、フリードリヒ1世はレニャーノ Legnanoの戦いで和解した。 その後、「神聖」にこだわるフリードリヒ1世は聖地エルサレムを奪還するため、第3回十字軍として遠征するが、その道中死亡(暗殺の噂あり)した。 生年1122~1190年没。
12 ハインリヒ6世
Heinrich Ⅵ
ドイツ王
1190~1197
神聖ローマ皇帝
1191~1197

父王フリードリヒ1世によって、わずか4歳でドイツ王位に就いた。 ナポリ・シチリア両王国ルッジェーロ2世 Ruggero Ⅱの娘コンスタンツァ Constantaを皇妃に迎えた。 このコンスタンツァは北フランスのノルマンジーの王朝の最後の相続者だったため、ハインリヒ6世はドイツ王、ブルゴーニュ王、イタリア王、ナポリ・シチリア両王となる。 ローマ教皇庁はこれに反対した。 シチリアの反乱を抑えるために出征した時、32歳で死亡した。 生年1165~1197年没。
フィリップ
Philipp
ドイツ王
1198~1208
前皇帝である兄ハインリヒ6世が死亡した時、その息子フリードリヒ2世はまだ3歳だったため、シュヴァーベン公フィリップはフリードリヒ2世をドイツ王にして、自身が実権を握ろうとした。 ハインリヒ6世の遺言によって、義理の姉コンスタンツァはフィリップがドイツ王に即位することを認め、その代わり、息子フリードリヒ2世をシチリア両王とさせた。 その後、コンスタンツァは教皇インノケンティウス3世を息子の摂政にするという遺言を残して亡くなった。 そして、教皇インノケンティウスはフィリップを暗殺させた。 生年1178~1208年没。
14 オットー4世
Otto Ⅳ
ドイツ王
1198~1215
神聖ローマ皇帝
1209~1215
ヴェルフェン家
Welfen

教皇インノケンティウス3世は幼王フリードリヒ2世が元服して、自身の摂政の地位がなくなることを嫌い、ハインリヒ獅子公の息子オットー4世を皇帝位に就けた。 しかし、オットー4世は教皇に反し、シチリア両王国に攻めいった。 そのため、教皇はオットー4世を破門した。 これに呼応した諸侯はオットー4世を廃位させ、フリードリヒ2世を皇帝に指名した。 生年1175~1218年没。
15 フリードリヒ2世
Friedrich Ⅱ
ドイツ王
1215~1250
神聖ローマ皇帝
1220~1250
シュタウフェン家
Staufen

第12代ハインリヒ6世と皇妃コンスタンツァの息子。父王ハインリヒが6世が32歳で死去した時、フリードリヒ2世は3歳だった。 母コンスタンツァの遺言によって摂政に指名された教皇インノケンティウス3世は、フリードリヒ2世を教皇に従順に育てようとしたが、フリードリヒ2世は天才だった。 諸侯によって、フレードリヒ2世は皇帝に選出された。 しかし、教皇は帝国とシチリア両王国を分かつために、生まれたばかりのフリードリヒ2世の息子ハインリヒ7世にシチリア両王とした。 オットー4世がイギリス王室に縁があったことをフランスが嫌い、フりードリヒ2世のオットー4世討伐に力を貸した。 その後、教皇インノケンティウス3世の死後、約束を破り、次の教皇ホノリウス3世 Honorius Ⅲを怒らせたが、十字軍派遣を約束した。 しかし、シチリアの混乱を治めるために奔走し、十字軍の遠征は行われず、更に次の教皇グレゴリウス9世 Gregorius Ⅸにより破門されたので、十字軍として遠征した。 ところが当時、聖地エルサレムを治めていたアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルと意気投合し、無血で聖地エルサレムを奪還し、エルサレム王となった。 しかし、エルサレムをキリスト教独占にはしなかった。 また大司教などの教会領の支配を認め、諸侯の位と同等にした(「聖界諸侯との協約」)。 次にドイツ諸侯の権力を増大させた(「諸侯の利益のための協定」)。 息子ハインリヒ7世が自身に対して反乱を起こし、自殺した後、すぐにもう一人の息子コンラート4世をドイツ王とした。 2代次の教皇インノケンティウス4世はフリードリヒ2世を再び破門にし、偽皇帝として倒そうとした。 ナポリ大学を創設した。 生年1194~1250年没。
ハインリヒ7世
Heinrich Ⅶ
ドイツ総督
1216~1235

教皇インノケンティウス3世によって、生後間もなくシチリア両王に即位した しかし、教皇の死に伴い、約束を反故にした父皇帝フリードリヒ2世によって、共同統治者としてドイツ王に即位した。 ところが、いつまで経ってもドイツ総督でしかないハインリヒ7世は父フリードリヒ2世に不満を抱き、教皇グレゴリウス9世の画策により再結成されたロンバルディア都市同盟と手を結び、ドイツにて戦った。 しかし、父フリードリヒ2世に敗北し、目をつぶされ、イタリアのプーリア Puglia城に監禁され、結果、自殺した。 生年1211~1242年没。
コンラート4世
Conrad Ⅳ
ドイツ王
1250~1254
前々皇帝フリードリヒ2世の次男。長男ハインリヒ7世の反乱、自殺の後、ドイツ王に即位した。 生年1228~1254年没。
大空位時代
1250~1273
フリードリヒ2世の死去とともに、シュタウフェン朝は断絶し、シチリア両王国はフランスのアンジュー家、次いでスペインのアラゴン家の領地になった。 イタリア王国(北イタリア)はロンバルディア都市同盟による統治、ドイツは諸侯による連邦国家となった。 教皇インノケンティウス4世がフリードリヒ2世を破門した時、チューリンゲン地方 伯ラスぺ Raspeを擁立、次にオランダ伯ウィレム Willemを擁立し、コンラート4世の死後、2年間だけ一人でドイツ王となった。 ウィレムの死後、カスティリア Castilla王アルフォンソ10世 Alfonso Ⅹと、コーンウォール Cornwall 伯リチャード Richardが同時にドイツ王を名乗った。 ここで初めて、「神聖ローマ帝国」の名前が公式に記録された。 結局、七選帝侯のうち、マインツ大司教ヴェルナー・フォン・エッペンスタイン Werner von Eppensteinerが主導権を持ち、(七選帝侯ではないが)ニュルンベルク城伯フリードリヒに操られたライン宮中伯により、ルドルフ・フォン・ハプスブルクが推薦された。
ルドルフ1世
Rudolf Ⅰ
ハプスブルク伯
1240~1291
ドイツ王
1273~1291
(オーストリア・)
ハプスブルグ家

Habsburg
ハプスブルク伯アルブレヒト4世の長男として生まれた。 シュタウフェン家の熱烈な信奉者で、フリードリヒ2世の死後、コンラート4世に尽くした。 七選帝侯の2人により、スイスの小さな伯爵だったルドルフがドイツ王に選定された。 当初、七選帝侯ボヘミア王オタカル2世 Otakar IIが臣従を拒否したため、ルドルフと戦いになり、オタカルは敗北し、自身のプシェミスル家 Přemyslovcůの領地オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンが接収された。 そして、ケルンテンはルドルフの忠実な与党だったマインハルト家に与えられ、オーストリアとシュタイアーマルクはルドルフの息子二人に与えられた。 以降、ハプスブルグ家は元々の出身地のスイスを家臣に任せ。オーストリアを本拠地にした。 生年1218~1291年没。
アドルフ
Adolf
ドイツ王
1291~1298
ナッサウ家
Nassau
ルドルフ1世の死後、皇帝位が世襲制になることを恐れた諸侯は、ルドルフの死後、ナッサウ家アドルフを即位させたが、能力がなくすぐに廃位された。 生年1250~1298年没。
アルブレヒト1世
Albrecht Ⅰ
ドイツ王
1298~1308
(オーストリア・)
ハプスブルグ家

Habsburg
前々ドイツ王ルドルフ1世の息子。 ナッサウ家アドルフの後、ハプスブルク家アルブレヒト1世が皇帝位に就くが、悪政を敷いた結果、末弟ルドルフの息子(甥)パリチーダ Parricidaに暗殺された。 生年1255~1308年没。
16 ハインリヒ7世
Heinrich Ⅶ
ドイツ王
1308~1313
神聖ローマ皇帝
1310~1313
ルクセンブルク家
Luxemburg
アルプレヒト1世の暗殺後、選帝侯はルクセンブルク Luxemburg家ハインリヒ7世を次皇帝に選んだ。 これにより、ハインリヒ7世は戴冠式を受けるためローマに向かったが、当時ローマ教皇庁はフランス王下、聖地ヴァチカンはシチリア両王国占領下にあった。 仕方なく、ハインリヒ7世は、ラテラノ Laterano教会で枢機卿から戴冠した。 その後、自身の戴冠式を拒否したフランス人ローマ教皇ヨハネス22世 Johannes XXⅡを廃位させ、ニコラウス5世 Nicolaus Ⅴを対立教皇として立てた。 反ハプスブルク家で、ハプスブルグ家のスイスでの領地ウーリ Uri州、シュヴィーツ Schwyz州、ウンターヴァルデン Unterwalden州を帝国直轄としてハプスブルグ家から独立させた。 ボヘミア王国を接収し、自らが皇帝位選帝侯になったが、毒殺されたらしい。 生年1275~1313年没。
17 ルードヴィヒ4世
Ludwig IV
ドイツ王
1314~1347
神聖ローマ皇帝
1328~1347
ヴィッテルスバッハ家
Wittelsbach
ハインリッヒ7世亡き後、バイエルン公ヴィッテルスバッハ家ルードヴィヒ4世と、ハプスブルク家フリードリヒが立候補し内戦となるが、ルードヴィヒ4世が勝利した。 その後、皇帝位を戴冠するためにローマに向かうが、当時のローマ教皇庁はフランスの影響下にあり、「皇帝位は神から授かるもの」という理屈で、ローマ貴族コロンナ Colonna家シアッラから戴冠した。 諸侯会議で「選帝侯から選ばれた皇帝位は教皇の承認は必要としない」との決議を出した。 これに対し、教皇クレメンス6世はルードヴィヒ4世を破門し、廃位を宣言した。 そして対立王として、ハインリヒ7世の孫、ルクセンブルク家カール4世 Karl IVを立てた。 1346年、カール4世はドイツ王となり、その一年後、ルードヴィヒは狩りの途中急死した。 生年1282~1347年没。
18 カール4世
Karl Ⅳ
ドイツ王
1346~1378
神聖ローマ皇帝
1355~1378
ルクセンブルク家
Luxemburg
前々ドイツ王ハインリヒ7世の孫。 教皇クレメンス6世が前ドイツ王ルードヴィヒ4世を破門し、廃位を宣言したことにより、それを支持するマインツ、トリーア、ケルンの聖職選帝侯とザクセン選帝侯が、ルクセンブルク家カール4世をドイツ王とした。 カール4世は前皇帝ルードヴィヒ4世の政策を無効、停止させた。 その後、マインツに帝国大宰相、トリーアにブルゴーニュ王国大宰相、ケルンにイタリア王国大宰相の地位を与えた。 神聖ローマ皇帝の選挙規定などを記した「金印勅書」を書き、帝国議会はこれを承認し、帝国法となった。 その中で、神聖ローマ皇帝の戴冠はローマ教皇の許可が必要ないことを認め、選帝侯の特権を大幅に拡充した。 そのため、神聖ローマ帝国は選帝侯の諸侯国連邦の形に近くなった。 内紛の続くヴィッテルバッハ家の領地だったブランデンブルクを金銭で購入した。 生年1316~1378年没。
「偽書」5通の特許状と2通の手紙 1359年、カール4世の娘婿にあたるハプスブルク家当主ルドルフ4世は、5通の特許状と2通の手紙を偽造させた。 その内容を盾に、ルドルフは自身がオーストリア公、ケルンテン公、クライン公、帝国狩猟長官、シュバーベン公、アルザス公、プファルツ大公であると宣言した。 その真偽はうやむやのまま、帝国法に取り入れられてしまい、以降、ハプスブルク家は「オーストリア大公」の世襲公爵位を確立させた。
ヴェンツェル
Wenzel
ドイツ王
(ローマ王)
1376~1400

父王カール4世はルクセンブルク家の皇帝位世襲を願ったが、ヴェンツェル自身は諸侯と争い、敗北し、廃位させられた。 生年1361~1419年没。
19 ジギスムント
Sigismund
ドイツ王
(ローマ王)
1410~1437
神聖ローマ皇帝
1433~1437
前々ドイツ王カール4世の息子で、前皇帝ヴェンツェルの弟。 作者不詳の小冊子「ジギスムントの改革」なるものが流布され、教会の分裂は避けられたが、ドイツ国内では大して結果を残せなかった。 「宗教改革」を唱えたヤン・フス Jan Husを死刑にしたことでフス派戦争を引き起こしてしまった。 生年1368~1437年没。
アルブレヒト2世
Albrecht Ⅱ
ドイツ王
(ローマ王)
1438~1439
(オーストリア・)
ハプスブルグ家

Habsburg

婿
即位後、ルクセンブルク家の領のボヘミア、そしてハンガリーを得た。 前々ドイツ王ジギスムントの娘エリザベートを王妃とした。 赤痢で死亡した。 生年1397~1439年没。
20 フリードリヒ3世
Friedrich Ⅲ
ドイツ王
1440~1493
神聖ローマ皇帝
1452~1493
親戚 シュタイアーマルク Steiermark公エルンスト Ernstとリトアニア公女の息子に生まれる。 嫡子のいない前王アルブレヒト2世の急死に伴い、娘婿のフリードリヒ3世が、ハプスブルクの宗家、ドイツ王位の後継者となった。 自身の不手際で、前王アレプレヒト2世の息子ラディラスが名目上治めていた、ボヘミアとハンガリーの領地は失ったが、オーストリアの一部を得た。 弟アルプレヒトの元服後、フリードリヒ3世に領地分割を求めたが、フリードリヒ3世はこれを拒否したため、フリードリヒ3世家族をウィーンに軟禁した。 しかし、アルプレヒトはガンで死亡し、フリードリヒ3世は王位を取り戻した。 この治世から小物等に「A・E・I・O・U」と彫るようになったが、これはラテン語の「全てのものはオーストリアのもの」を意味する言葉の頭文字。 しかし、結果的に国号は「ドイツ国民のすべてのローマ帝国」とし、神聖ローマ帝国の実質所領地はドイツのみということを追認させた。 生年1415~1493年没。
21 マクシミリアン1世
Maximilian I
ドイツ王
1493~1519
神聖ローマ皇帝
1508~1519

父である皇帝フリードリヒ3世とポルトガル王女エレオノーレ Eleonoreの長男として生まれた。 ドイツ王がローマ教皇の戴冠を受ける儀式そのものをなくした。 これはつまり、神聖ローマ帝国からイタリア王国、ブルゴーニュ王国が離脱したことを意味した。 すると、イタリア王国に対するフランス王シャルル8世 Charles Ⅷの侵略に対し、マクシミリアン1世はイタリアを奪還するためにこれに戦った(1494年イタリア戦争)。 しかしこの時、騎士を歩兵に変更したことで、主従関係ではなくなり、彼らは金銭による傭兵部隊(ランツクネヒト Landsknecht)となった。 続けて1499年スイス戦争も起こったが、両戦争とも大した結果はだせなかった。 1512年、初めて「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」を国号とした。 帝国領土としていたボヘミア王国、シュレージェン Schlesische(ポーランド南西部)、メーレン Mähren(チェコ東部)は帝国の領土ではなくなった。 フランス公領になったいたブルゴーニュ公爵シャルルの娘マリー Marieと政略結婚し、そのシャルル死後、ブルゴーニュは失ったが、ネーデルラント諸邦をマリーが相続した。 長男フィリップ Philippeをスペイン王女ファナ Juanaと、長女マルガレーテ Margareteをスペイン皇太子ファン Juanと結婚させた。 相互相続契約により、ファンの死後、マクシミリアン1世はスペインを手に入れた。 フィリップの死後、長男カールはスペイン国王カルロス1世 Carlos Ⅰとして即位した。 しかし、母マルガレーテはこれを認めず、実質カルロスの王位は3年で終わった。 更にカールはポルトガル王女と結婚し、その後スペインによるポルトガルの併合に繋がった。 続けて、マクシミリアン1世は孫フェルディナント1世をハンガリー王女アンナ Annaと、孫娘マリーをハンガリー皇太子ラヨシュ2世 Lajosと相互相続契約として結婚させた。 これによりその後、ハンガリーと、ハンガリーと同君連合国となっていたボヘミア王国がハプスブルク家のものとなった。 生年1459~1519年没。
22 カール5世
Karl V
カルロス1世
Carlos I
ローマ王
1519~1556
神聖ローマ皇帝
1530~1556
スペイン王
1516~1556
前皇帝マクシミリアン1世の息子フィリップとスペン王女ファナの間に生まれた。 19歳で即位したカールは、オーストリア大公爵、アラゴン王、カスティリア王、スペイン王、その他70の領地を治めることになった。 当初、神聖ローマ皇帝選挙では、フランス王フランソワ1世 François Ⅰと争ったが、「ドイツ国民の」との国号が影響し、ルドルフ1世の子孫カール5世が勝利した。 この治世にマルチン・ルター Martin Lutherによる「宗教改革」に反抗(プロテスト)したドイツ諸侯はシュマルカルデン Schmalkalden軍事同盟を結び、カールと戦争を起こしたが、敗北した。 しかし、神聖ローマ帝国皇帝の権力は弱体化し、カールは弟であるフェルディナント1世に皇帝位を、息子フェリペ Felipeにスペイン王位を譲った。 近代郵便制度を確立した。 生年1500~1558年没。
23 フェルディナント1世
Ferdinand I
神聖ローマ皇帝
1556~1564
前々皇帝マクシミリアン1世の息子フィリップとスペン王女ファナの間に生まれた。 前皇帝である父カール5世より皇帝位を譲位されたが、ハンガリーに攻め込むオスマン・トルコとの争いに忙殺された。 生年1503~1564年没。
24 マクシミリアン2世
Maximilian Ⅱ
神聖ローマ皇帝
1564~1576
息子 前皇帝フェルディナント1世の息子。 カトリックではあったが、プロテスタントに傾倒していた。 生年1527~1576年没。
25 ルドルフ2世
Rudolf Ⅱ
ハンガリー王
1572~1608
ボヘミア王
1575~1611
ローマ王
1575~1576
神聖ローマ皇帝
1576~1612

父である皇帝マクシミリアン2世の長男として生まれ、スペイン王フェリペ2世の元にで育った。 プラハに居城を構えた。 錬金術師、魔術師等を重用したため、皇帝位の権威は失墜した。 生涯独身を貫こうとした。 生年1552~1612年没。
26 マティアス
Matthias
神聖ローマ皇帝
1612~1619
前々皇帝マクシミリアン2世の息子。 愚鈍な兄から、オーストリア、ハンガリー、ボヘミアの主権を奪い、皇帝位を持たせたまま兄を軟禁した。 しかし、結局、兄同様、嫡男を得ないまま死亡した。 生年1557~1619年没。
27 フェルディナント2世
Ferdinand Ⅱ
ボヘミア王
1617~1637
ハンガリー王
1619~1637
神聖ローマ皇帝
1619~1637
従兄弟 4代前の皇帝フェルディナント1世の孫として生まれた(父はシュタイアーマルク公カール2世の長男)。 イエズス会に育てられたため、強硬なカトリック信徒だったため、自身のハプスブルク領内のプロテスタントを弾圧、追放した。 そのことでドイツ30年戦争(1618年)が起きた。 まずボヘミア王位を簒奪したプファル選帝侯フリードリヒ5世を倒し、選帝侯位も奪い、自身に味方したバイエルン公マクシミリアン1世にその地位を与えた。 続き、自身の地位を確立させるため、新たに200の爵位(100以上の男爵、70以上の伯爵、15の辺境伯と公爵、七帝国諸侯)を叙爵した。 傭兵隊長ヴァレンシュタイン Wallensteinが次なるデンマーク戦争に勝利し、デンマーク王位を奪還した。 「プロテスタント教会領をカトリック教徒領に戻す」という乱暴な「回復令」を発令した。 しかし、余りに無謀な政策(皇帝位はハプスブルグ家の世襲にする等)を進めたためにカトリック諸侯にも反感を買い、ヴァレンシュタインを罷免した。 更にフェルディナント2世によるバルト艦隊の創設に反対するスウェーデン王グスタフ・アドルフ Gustav Adolfは、ドイツのプロテスタント諸侯の救援を名目に、ドイツに攻め入った。 ところが、ヴァレンシュタインの再雇用でグスタフ・アドルフは敗れ、死亡した。 生年1578~1637年没。
28 フェルディナント3世
Ferdinand Ⅲ
ハンガリー王
1625~1657
ボヘミア王
1627~1646
神聖ローマ皇帝
1637~1657
息子 父である皇帝フェルディナント1世の治世で始まった30年戦争を終わらせ、ウェストファリア条約 Westfälischer Friede(1648年)を締結した。 それにより、「領民の宗教は領主の宗教」とされ、スイスとオランダが帝国を離脱した。 同時にスウェーデンはいくらかのドイツ諸侯領を手に入れ、帝国等族となった。 生年1608~1657年没。
29 レオポルド1世
Léopold Ⅰ
ボヘミア王
1656~1705
ハンガリー王
1657~1705
神聖ローマ皇帝
1658~1705
息子 父である皇帝フェルディナント3世とスペイン王フェリペ3世の娘マリア・アンナの次男として生まれた。 ハプスブルク家の領地ウィーンを狙うオスマン・トルコのスルタン sultān(王)モハメド4世 Mohammed Ⅳは、フランス王ルイ14世 Louis XIVを中立にさせ、ハプスブルグ家領地に攻め入った(1683年)。 これに対し、帝国諸侯は宗派を超えて協力し、勝利を治めた(この時ウィンナーコーヒーが広まった)。 その後、フランスのヴェルサイユ宮殿 Palais de Versaillesに対抗し、バロック調のシェーンブル宮殿 Schloss Schönbrunnを建設した。 これにより、バロック大帝と呼ばれた。フランスに対抗するため、イギリスのハノーファー公家(後のハノーファー朝)に選帝侯位を授けた。 この時、神聖ローマ帝国の領地はハプスブルグ世襲領王国と9の選帝侯王国となった。 この頃、嫡男のいなかったスペイン王のスペイン・ハプスブルク家カルロス2世 Carlos Ⅱが「領地をフランス・ブルボン家に譲る」との遺言を残したことで、スぺインはフランス領となった。 これに対し、イギリス、オランダはオーストリア・ハプスブルク家と対フランス同盟 (ハーグ同盟)を結び、スペイン継承戦争(1701~1704)をフランスに宣戦布告した。 更にスペイン継承戦争直前に、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世との間に王冠条約を交わし、フリードリヒ3世はプロイセン王フリードリヒ1世を名乗ることができるようになった。 音楽や建築を好んだ。 生年1640~1705年没。
30 ヨーゼフ1世
Joseph Ⅰ
神聖ローマ皇帝
1705~1711
ハンガリー王
1687~1711
ボヘミア王
1705~1711
オーストリア大公
1705~1711

父である前皇帝レオポルド1世の息子。 スペイン王位を巡るスペイン継承戦争(1701~1714年)の最中、即位したが、急死した。 生年1678~1711年没。
31 カール6世
Karl VI
ハンガリー王
1711~1740
ボヘミア王
1711~1740
神聖ローマ皇帝
1711~1740
父であるレオポルト1世と3人目の妻エレオノーレ・マグダレーナ Eleonora Magdalenaの次男として生まれた。 スペイン継承戦争後にスペインの王位を継ぐと思われたが、兄王ヨーゼフ1世の死とその嫡男の早世により、先に神聖ローマ帝国皇帝に就いた。 これに反対した同盟国オランダ、イギリスは「スペインはフランス・ブルボン王の領地である」とスペイン継承戦争を終わらせた。 更にバイエルン選帝侯国がフランスと同盟を結んだ。 嫡男を得ずに亡くなくなる前、女子相続を認める相続順位法を制定したが、それはハプスブルク家領地内のみとなり、皇帝位の女子相続は叶わなかった。、 この治世、プロイセン王フリードリヒ2世(1世の孫)はフランス、スペイン、バイエルン選帝侯国、ザクセン選帝侯国と組み、ハプスブルグ家に反逆し、オーストリア継承戦争(1740~1748)を始めた。 生年1685~1740年没。
32 カール7世
Karl Ⅶ
神聖ローマ皇帝
1742~1745
ヴィッテルスバッハ家
Wittelsbach
オーストリア継承戦争を経て、バイエルン選帝侯国王ヴィッテルスバッハ家のカール7世が皇帝位を奪った。 生年1697~1745年没。
マリア・テレジア
Maria Teresia
オーストリア大公
1740~1780
ハンガリー女王
1740~1780
ボヘミア女王
1743~1780
(オーストリア・)
ハプスブルグ家

Habsburg
父である皇帝カール6世とクリスティーネ Christinaの長女として生まれた。 (オーストリア・)ハプスブルグ家の女当主とはなれたが、嫡男のみが皇帝位を継ぐという帝国法によって、神聖ローマ皇帝にはなれなかった。 ロートリンゲン家フランツ・シュテファン Franz Stephanを婿養子にしてハプスブルグ家の皇帝位を守った。 マリー・アントワネット Marie-Antoinetteの母親でもある。 生年1717~1780年没。
33 フランツ1世
Franz I
神聖ローマ皇帝
1745~1765
ハプスブルク=ロートリンゲン家
Habsburg-Lothringen
前々皇帝カール6世の娘マリア・テレジアの働きによって、婿養子であるロートリンゲン公シュテファン・フランツ Stephan Franzが皇帝位に就いた。 しかし、これに反対したフランスはロートリンゲン領地を没収し、代わりに断絶したメディチ Medici家の領地だったトスカーナ Toscana大公領を得た。 この後、7年戦争(1756~1763年)が勃発した。 この戦争ではオーストリアはロシア、フランスと組み、プロイセンはイギリスと組んで衝突したが、イギリスの勝利で終戦した。 マリア・テレジアはこの後、ハプスブルグ王領国内の内政だけに力を注ぎ、神聖ローマ帝国は名ばかりとなった。 後にフランス王ブルボン家ルイ16世と結婚するマリー・アントワネット Marie-Antoinetteの父親でもある。 生年1708~1765年没。
34 ヨーゼフ2世
Joseph Ⅱ
ローマ王
1746
ハンガリー王
1780~1790
ボヘミア王
1780~1790
神聖ローマ皇帝
1765~1790

父である皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの長男として生まれ、母マリアのおかげで即位した。 パルマ・ブルボン家の娘と結婚した。 宮廷儀式の簡素化し、プロテスタント、ギリシャ正教、ユダヤ教を容認した。 農奴制を廃止した。 作曲家モーツァルトを宮廷楽師として雇った。 生年1741~1790年没。
35 レオポルト2世
Leopold Ⅱ
神聖ローマ皇帝
1790~1792
ハンガリー王
1790~1792
ボヘミア王
1790~1792
オーストリア大公
1790~1792
父である皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの三男として生まれ、母マリアのおかげで即位した。 スペイン・ブルボン家の娘と結婚した。 生年1747~1792年没。
36 フランツ2世
Franz Ⅱ
フランツ1世
Franz Ⅰ
ハンガリー王
1792~1835
ボヘミア王
1792~1835
神聖ローマ皇帝
1792~1806
オーストリア皇帝
1804~1835
息子 前皇帝レオポルト2世とスペイン王でカルロス3世の娘ルドヴィカの後の間に生まれ、 最後の「神聖ローマ帝国皇帝」となった。 「三帝会戦」(1805~1806)で戦った。 ナポレオンの侵攻により、全世襲領土を「オーストリア帝国」としたため、最後の「神聖ローマ皇帝」となった。 そのため、初代「オーストリア皇帝フランツ1世」を名乗った。 長女マリー・ルイーズ Marie Louiseをナポレオン1世に嫁がせた。 生年1768~1835年没。
フェルディナント1世
Ferdinand Ⅰ
オーストリア皇帝
1835~1848
息子 前皇帝フランツ2世の息子。 生年1793~1875年没。
フランツ・ヨーゼフ
1世

Franz Joseph I
オーストリア皇帝
1848~1916
息子 前皇帝フェルディナント1世の息子。 生年1830~1916年没。
カール1世
Karl I
オーストリア皇帝
1916~1918
親戚 前皇帝フェルディナント1世の甥の息子。 生年1887~1922年没。
※ドイツ諸侯・・・ザクセン、バイエルン、シュバーベン、ボヘミア、メーレン、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン、ロートリンゲン、ブラバンド等の公爵、ブランデンブルク、マイセン、ラウジッツ等の辺境伯、ライン、ザクセンの宮中伯、チューリンゲン地方伯、アンハルト伯、ホラント伯、ハプスブルク伯、ニュルンベルク城伯等。加えて、大司教、司教、修道院長の高位聖職者約60名。
※選帝侯・・・帝国皇帝を決める選挙に票を持つ諸侯。当初は7人だったが、後に9人になり、最後には12人となった。
※ロンバルディア都市同盟・・・1167年成立した都市同盟。スイス国境とポー川に挟まれたイタリア北部の州。州都はミラノ Milano。北イタリアに侵入したゲルマン人の一部族ランゴバルト(ロンバルト)王国が元。
※(ドイツ)国王(皇帝)選挙人・・・当初40人いたが、フリードリヒ1世(バルバロッサ)により7人(七選帝侯)となっていた。マインツ大司教(筆頭)、トリーア大司教、ケルン大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア国王。
※プロイセン・・・スラブ人の定住地。
※「三帝会戦」・・・神聖ローマ皇帝フランツ2世、ロシア皇帝アレクサンドル1世 Aleksandr I、フランス皇帝ナポレオン1世 Napoleone Ⅰの戦い。ナポレオン1世が勝利した。
※相互相続契約・・・結婚に伴い、一方が亡くなると生きている方がその遺領を相続するという契約。
※創作物に使用する場合は敬意をもって使用のこと。
※世数表示は見間違いを防ぐため、アラビア数字で表記した。
※(?)=調査、確認中。
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